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“宝塚の至宝”柴田侑宏さんを偲んで

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“宝塚の至宝”柴田侑宏さんを偲んで

 

「あかねさす紫の花」から「誰がために鐘は鳴る」まで古今東西さまざまな文学作品を舞台化、この半世紀の間、宝塚の作品群に確固とした品格を生み出した最大の功労者、柴田侑宏氏が、7月19日、闘病の末亡くなられた。87歳だった。7月21日に通夜式、同22日には告別式が西宮市内のエテルノ西宮でしめやかに営まれ、OGや現役生はじめ多数の関係者が参列、故人の冥福を祈った。この機会に“宝塚の至宝”柴田先生の足跡と思い出を振り返ってみたい。

 

柴田氏といえば若手のころは日本物の作家というイメージが強かった。私が最初に柴田氏の作品に触れたのは星組公演「ノバ・ボサ・ノバ」初演と一緒に上演された「いのちある限り」(1971年)ではなかったかと思う。鳳蘭、安奈淳、大原ますみという星組ゴールデントリオといわれた3人が山本周五郎原作の人情ものに挑戦した作品で、鳳の似合わない青天姿で伝説的な舞台だ。

 

「ノバ―」の強烈な衝撃度に隠れて見過ごされがちだが、「いのち―」も故寺田瀧雄氏の名曲がちりばめられたさわやかな感動作だった。その後、バウホールで一度だけ再演されている。ほぼ同時期の「小さな花がひらいた」そして「たけくらべ」とこのころの柴田作品は珠玉のような作品群が並ぶ。

 

一期上の植田紳爾氏が1974年に「ベルサイユのばら」を発表、社会現象的なヒットを飛ばしたことで、大きな刺激を受けたかのように、これまで宝塚では扱われなかった新選組や古代王朝を題材にした「星影の人」や「あかねさす紫の花」を発表、いずれも高い評価を得て、ポスト「ベルばら」に貢献、宝塚での存在を絶対的なものにした。

 

このころから海外文学作品の舞台化やオリジナル作品も積極的に取り組まれ、1974年の星組公演「アルジェの男」に次いで発表された1975年の雪組公演「フィレンツェに燃える」で芸術選奨新人賞を受賞、演劇界での名声も確立された。生前、柴田氏から「僕の作品で再演するとしたら君は何を見たい」と問われ、真っ先にこの作品を上げると、ご本人も「機会があったらやりたい」とおっしゃっていたのだが、なぜか再演されずじまいに終わったのが悔やまれる。

 

柴田氏の作風は、人間ドラマとして緻密に計算され、ストーリーとしての破綻がなく、結末を観客にゆだねて、見終わった後に深い余韻が残るという作品が多いのが特徴。一方、オリジナルでは「バレンシアの熱い花」のように、トップスターの個性や組の構成を考慮して、各人各役をあて書きしながらドラマとしても大胆な構成で書き下ろすなど、宝塚歌劇の座付き作者としての職人技には他の追随を許さないものがあった。「バレンシア―」初演は榛名由梨、順みつき、瀬戸内美八の月組三人トリオだったが、客席の熱気は今以上の信じられないパワーがあって圧倒されたことをよく覚えている。

 

1985年、月組の剣幸のトップ披露公演「ときめきの花の伝説」はスタンダールの「ヴァニナ・ヴァニニ」の舞台化だったが、この時の舞台稽古で「最近、視野が狭くなって」とおっしゃっていたのをよく覚えている。その後、病気が進行して失明に近い状態になってしまわれ、新作の執筆が困難になってしまわれたのは慙愧に堪えない。それでも、自作の再演の時は、必ずその時のトップスターの個性や組の構成にあわせて役を書き足したり、場面を増やしたりといった補筆を欠かさず、稽古場には必ず顔を出し、舞台稽古、初日なども付き添いの方と一緒に必ず客席でご覧になっていた。

 

つい最近も稽古場で、出演者が立ち位置を間違えると、すかさず柴田氏の叱咤の声が飛び、演出を担当していた中村一徳氏が「見えないというのは嘘で、実際は見えているのではないかと思った」というほど、稽古場での柴田氏の集中力は研ぎ澄まされていたという。

 

柴田氏の宝塚歌劇団入団の経緯を、ご本人に取材した話をもとに再現してみよう。お兄さんが日活の映画監督だった松尾昭典氏だったことに影響されて、自身も大学卒業後、東京で脚本家修行をされていたのだが、宝塚歌劇団が募集したテレビドラマの脚本コンクールに応募して入選、面接で宝塚に来た時にそのまま入団が決まり、演出助手として採用されたのだという。それまで宝塚歌劇は一度も見たことがなかったという。1958年のことだった。当時OTV(毎日放送と朝日放送の前身)に宝塚歌劇の番組枠があって、入団早々、そこで民話ドラマシリーズを担当されることになり、同期の新人作曲家だった寺田瀧雄氏とともに担当、右も左もわからず、しかも生放送の番組で大変だったそうだが、このシリーズは寺田氏とのコンビ誕生のきっかけとなったほか、その後の宝塚での脚本執筆に大きな勉強になったといいます。

 

「アルジェの男」が霧矢大夢時代の月組で再演されることが決まった時、私が講師をしている毎日文化センターの「宝塚歌劇講座」にゲスト講師としてお招きし「アルジェの男」の創作秘話についてお話し頂きました。詳しい内容はほとんど忘れてしまったのですが、女性が演じる男役とかは特に意識することなく、しっかりした内容があってドラマに納得性があれば、品格さえ保てばどんな題材でも宝塚で上演できる、という確固たるポリシーを持っておられたのはよく覚えています。

 

宝塚を離れても十分通用する作品を数多く発表してきた柴田氏ですが、宝塚以外の舞台からの誘いには一切応じることはなく、宝塚一筋に邁進してこられました。宝塚らしさとか宝塚の限界という常識を取っ払い、次々に新境地を開拓されてきた功績は計り知れないものがあると思います。ラクロの「危険な関係」が「仮面のロマネスク」という見事な作品に生まれ変わったのがその証明でしょう。

 

そんななかで私が一番好きな柴田作品はといわれれば、松あきら、順みつき時代の花組公演「エストレリータ」を挙げます。2人がダブルトップといわれていた時代の書き下ろしで、ブラジルのリオデジャネイロを舞台にしたトライアングルラブ。どちらも際立つように書かれたその手腕が見事でほとほと感心した覚えがあります。この作品も再演されていません。「琥珀色の雨にぬれて」もいいのですが、個人的には「エストレリータ」が一番です。このことは生前、柴田氏にもお伝えしたことがあって「へーえ」と意外そうな返事をされながらも満更でもない表情をされたのが今となっては宝物となってしまいました。合掌。

 

21日の通夜式には、榛名由梨、鈴鹿照、高汐巴、寿ひづる、杜けあき、蘭寿とむ、龍真咲らOG、松本悠里、轟悠、明日海りお、望海風斗らの現役生、翌22日の告別式にも黒木瞳はじめ多くのOGが参列、柴田氏の冥福を祈りました。

 

©宝塚歌劇支局プラス7月22日記 薮下哲司

 

 

 

 

 


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