小藤田千栄子さん(映画、演劇評論家)を悼む
長年にわたり雑誌「歌劇」に、宝塚歌劇の公演評を連載、その愛情あふれる温かい文章でファンに親しまれていた映画、演劇評論家、小藤田(ことうだ)千栄子さんが9月11日、東京都内の病院で大動脈解離によって亡くなっていたことが19日わかり、20日公表されました。
小藤田さんは1939年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業後、雑誌「キネマ旬報」編集部に10年籍を置いたあとフリーに。ミュージカルを中心に女性の立場から映画、演劇を評論、温かい中にも鋭い評論はファンだけでなく演劇関係者にも支持され、エンタテイメント評論を目指す若い世代の女性からもその指標となってきた大きな存在でした。
数年前にがんがみつかって手術を受け、いったんは回復して復帰されていたのですが、昨年春ごろに再発、入退院を繰り返し、ここ半年ほどはメールに対する返信もなく、心配していた矢先の訃報でした。最後にお会いしたのは昨年1月7日。翌日から月組公演「グランドホテル」の役替わりを二日続けてご覧になるために宝塚大劇場に来られた時でした。前夜に大阪市内でお会いして食事をしたのですが、「エリザベート」ガラコンサートや、映画「ラ・ラ・ランド」など話題が尽きず、あっというまに時間が過ぎたのですが、近々、検査入院しないといけないとは話されていました。でも、お元気そうだったのでそんな大変なこととは思わず、次回また宝塚に来られるときはご一緒しましょうと言って別れたのですが、まさかそれが最後になるとは夢にも思いませんでした。
小藤田さんと初めてお会いしたのは1986年11月、旧梅田コマ劇場で初演された故藤田まこと主演のミュージカル「その男ゾルバ」の時でした。大阪初演のミュージカルということで評論家仲間の萩尾瞳さんと二人で来られて観劇されたのですが、終演後、宣伝マンだった山下徹さん(故人)が紹介してくださったのです。
それ以降、東京での宝塚の製作発表などでしょっちゅうお会いすることになり、月刊「ミュージカル」誌の執筆メンバーに推薦していただくなど、私にとっても大きな存在でした。海外取材にも何度かご一緒しました。なかでも、1998年11月、一路真輝さんのニューヨークのカーネギーホール出演取材をメーンにした取材旅行は忘れられません。この時は、それ以外にもいろんな取材が重なっていて大忙しの滞在でした。小藤田さんは、ニューヨークで日本の演劇界とのパイプ役をされていた大平和登さん(故人)が主催されたジャパンミュージカルアワードの授賞式で英語のスピーチをされるのも目的のひとつでした。日本でブロードウェーミュージカルがいかに受け入れられているか解説されたのですが、そのわかりやすい内容と英語で現地の方々にも日本でのミュージカルブームの現況が確実に理解されたと思います。小藤田さんの原稿をあらかじめ英訳してあったメモを、ご自分がわかる英語に書き直してのスピーチでした。
もともと映画評論が専門の小藤田さんが宝塚歌劇と深くかかわりを持たれるようになったきっかけは、1992年に開場した大阪・シアタードラマシティの機関誌「ドラマシティ」(現在は廃刊)で当時の小林公平理事長(故人)との対談連載をされるようになったころからです。もちろんそれまでも公演はご覧になっていましたが、どちらかというと宝塚よりは映画やミュージカル中心でした。この連載が始まってから、宝塚についてのいろいろなことを、会うごとに聞いてこられるようになり、初歩的なことも含めてずいぶん多くのことをご教示したものです。
そんな小藤田さんの一番のごひいきは、元花組トップスターの安寿ミラさんでした。厳しい筆も、安寿さんのことになるとにわかに甘くなるのもほほえましいことでした。とはいえどんなに厳しい評でも根底には愛があふれ、読んだ後、必ずその映画や舞台が見たくなるような批評でした。これは私自身もいつも心がけていることで、これからも小藤田さんの想いをずっと受け継いでいきたいと思います。
それにしても50年代から現代までの映画や舞台の話を、何の注釈もなく話せる方が、また一人亡くなってしまいました。寂しい限りです。合掌。
©宝塚歌劇支局プラス9月20日 薮下哲司 記