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Channel: 薮下哲司の宝塚歌劇支局プラス
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稀代のショースター、眞帆志ぶきさんを偲んで

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かつての公演プログラムより



稀代のショースター、眞帆志ぶきさんを偲んで


新型コロナウィルス感染予防のため公演の中止や延期が相次ぐなか、1960年代後半から70年代にかけて活躍した稀代のショースター、眞帆志ぶき(在団時表記は真帆)さんが11日、肺炎のため9日になくなったと報じられました。学生時代、華やかで美しいけれど何か物足りなさを感じていた宝塚の舞台で、眞帆さんの衝撃的なパフォーマンスに驚嘆、宝塚歌劇を見る目を変えてくれた私にとっての宝塚のミューズともいうべき存在だった眞帆さん。全盛時代の舞台の魅力を振り返りながら眞帆さんを偲んでみたい。

私にとって眞帆さんの舞台といえば、やはり1967年初演の雪組のショー「シャンゴ」(鴨川清作作、演出)から始まる。ジャズの誕生をショー化した鴨川氏の野心作で、冒頭はアフリカのジャングル。どこからともなく聞こえてくる乾いた太鼓のリズミカルな音が、徐々に大きくなって川を下り、海を渡って、南米ブラジルからキューバへ、そしてアメリカへとたどり着く。コミカルなココナッツウーマンやバナナボートソングなど眞帆さんの硬軟自在の歌とダンスが絶品で、野性的な舞台がどんどん洗練されていき、眞帆さん以外は男役も娘役も全員同じ衣装のきらびやかな衣装での大階段を使わない斬新なフィナーレは圧巻の一語。振付は“鬼のストーン”と言われたパディ・ストーン氏。今見ても十分通用する50年は先取りしたショーでした。

翌68年に再演されていますが、その後は、眞帆さんのサヨナラ公演で一部が再現されたのと、麻実れいがトップ時代の「TMP音楽祭(現タカラヅカスペシャル)」と涼風真世時代の月組のショー「メモリーズ・オブ・ユー」(1992年、草野旦作、演出)でココナッツウーマンの場面のみが再現されましたが、全容は再演されていません。「メモリーズ―」上演の時、涼風らを指導するために眞帆さんが歌劇団の稽古場を訪れ、涼風らを前に自らお手本を演じたのですが、眞帆さんのしなやかな動きは現役時代そのままで、居合わせた報道陣や劇団関係者が思わず息をのんだのがついこの間のような気がしています。

眞帆さんの宝塚時代に演出家の鴨川氏と振付のストーン氏の存在は切り離せません。この3人のトリオによる作品は「シャンゴ」のほかにも「愛のコンチェルト」や「ポップ・ニュース」といった名舞台があります。眞帆さんは1952年初舞台。39期生の首席でした。朝丘雪路と同期です。1962年雪組トップに。「花のオランダ坂」や「回転木馬」などで8年間トップを務めた後、1970年に声楽専科に移動、75年まで別格トップ的存在で各組のショーを中心に特別出演しました。「シャンゴ」はトップ時代ですが「愛のコンチェルト」や「ポップ・ニュース」は専科時代です。

鴨川氏とのコンビによるショーは「ファニー・フィーリング」や「ラブ・ラバー」など数多くありますが1971年の星組公演「ノバ・ボサ・ノバ」が代表作でしょう。これはストーン氏が諸事情で来日できず、彼の薫陶を受けた座付きの振付家が総力を結集して作り上げた置き土産のようなショーでした。この作品は柚希礼音時代の星組でも再演されショーの名作としていまだに人気の高い作品ですが、初代ソール眞帆さんが演じたくず拾いの場面は誰にもまねのできない絶妙のパフォーマンスでした。このころになると、眞帆さんの歌、ダンス、芝居の実力は他の生徒のレベルからは抜きんでていて、大人と子供のような境地にまで到達していました。

退団公演の「ザ・スター!」(鴨川清作作、演出)は1974年11月に東京公演からスタートしましたが、この公演が、あの「ベルサイユのばら」初演と二本立てで「ザ・スター!」が前もののショーだったことが、それからの宝塚を象徴した出来事でした。その翌年3月の宝塚大劇場、眞帆さんは「ベルばら」ブーム真っただ中に退団していったのです。

在団中からNHK紅白歌合戦に出演したり、外部のミュージカル「スイートチャリティ」に出演、その実力は周知されていましたが、浅利慶太氏に請われて退団後に初めて出演した劇団四季のミュージカル「ヴェローナの恋人たち」は、眞帆さんが実力をフルに発揮できたとは言えない舞台でしたが宝塚時代には見られなかったアフロヘアとショートパンツ姿でキュートな魅力が横溢していました。

その後も数々の舞台で活躍されましたが、ミュージカルへの出演は徐々に減り、最近はOGたちとのコンサートへの出演が主でした。なかでも2005年10月に行われた入江薫氏の作曲家生活55周年を記念したコンサートで、加茂さくらと久々にコンビを組んで「花のオランダ坂」の主題歌を披露したのが印象に残っています。この日のために衣装を新調して臨んだというのも完璧主義の眞帆さんらしいエピソードでした。

眞帆さんは退団後、大阪の北新地と東京の四谷でラウンジのオーナーをされていたことがあり、時々お邪魔して宝塚時代のいろんなお話を聞く機会ありましたが、最後にお会いしたのはそれから20年ぐらいたったあと宝塚音楽学校100周年式典の時ではなかったかと。「やあ久しぶりやねえ。あんた覚えてるよ」といわれて握手した手のぬくもりが忘れられません。その翌年、宝塚大劇場での100周年記念OGコンサートに出演、代表曲「愛」と「アマール、アマール」を絶唱されました。全盛時代を知っている身にはやや辛く感じたのですが、眞帆さんが登場したとたん舞台の空気が変わり、時が止まったような感覚になったのはさすがでした。初めて眞帆さんの歌を聞いた若い記者が「昔のスターさんってすごいですね」と思わずつぶやいた言葉が忘れられません。まさに稀代のショースターでした。合掌。

       薮下哲司



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